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「日本死ね」批判について

流行語大賞に選出された「保育園落ちた日本死ね」というフレーズについて、有村裕子という方(誰だか知りません)の書いたコラムを読んだ。こう書かれている。

しかしながら、「流行語ベスト10」の中には気がかりな言葉もありました。「保育園落ちた日本死ね」です。待機児童問題は深刻化し、特に今年はクローズアップされました。女性とみられる方がブログに書き込んだ文章が話題になりましたが、この言葉が全国的に流行(はや)ったのでしょうか。そもそも「死ね」という言葉が流行語として認定されることが健全といえるのでしょうか。

 ある選考委員は「問題を喚起するものとして選んだので、言葉として『好きだ、嫌いだ』『過激だ、穏やかだ』といった観点はない」と話しました。でも流行語として見た子どもたちが、どんな思いを抱くでしょう。授賞式で笑顔を浮かべていた国会議員や、選考基準の理解に苦しみます。

今日偶然にもファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理 ―ネオリベラリズムへの反論』(原山哲・山下りえ子訳)を読んでいて、上の話について何か言えていそうな一節に遭遇したので、そちらも引いてみる。ネオコンサバティズムネオコン、文中ではネオ保守主義)についてのコメントだ。翻訳にやや難ありだが理解はできる。

ネオ保守主義は、最小限度の道徳としての機能があるだろう。それは、自律している起業家や経済力のある消費者ではなく、もっと弱い人びとの欲望を抑制させるためなのだ。 だからこそ、ネオ保守主義は、ネオリベラリズムと親和性がある。ネオ保守主義は、人間の運命の不平等を問題にしないし、社会における「非」民主的な使命を保持している。

有村さんの議論は、彼女由来でも独自でもなく、ソーシャルメディアにもその他のインターネットの時空間にもリアルな世界にも氾濫している。これは一人ひとりが内在的な美醜の感覚に照らしあわせて「日本死ね」の流行語選出に憤慨しているというわけではなく、より社会的政治的な出来事として捉えられるし、捉えられるべきではないだろうか。つまり、言葉遣いへの問題提起の形ではあっても、実際のところ批判は抑圧ありきでなされているということだ。実際の問題(待機児童問題)も、力強さにおける訴えのプラグマティックな画期性も一切無視するために、道徳的な感情が扇動されている。この現象は新自由主義を受け入れた社会のひとつの側面(しかし、実のところ広範な面)で発生するものとして理解できるはずだ。

つい先日、総理大臣の「子供の貧困は減少した」という趣旨の発言の報道を目にした。この発言を無知と評価するだけでは不十分だ。社会には、このような生活の問題の実態を直視することを避け、訴えを退ける意志が濃厚だ。流行語批判についても、意味がないから言葉遣いの問題に拘りづつけるのは直ちに止すべきだという主張は首肯できるが、それしか言わないのはナイーブだ。批判の動機は、言葉の攻撃性の作用にたいする反作用(反動)だけではなく、訴えにより引き起こされたある種の政治に対するルサンチマンでもあるはずだからだ。

社会は引き続き、弱い者いじめから舵を切ることをしようとしていない。

 

ケアの倫理 (文庫クセジュ)

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