グリンチはどうやってぼくのヒーローになったのか
(ネタバレ容赦なし。『グリンチ』くらいさっさと観ておこう)
冗談抜きで、めちゃくちゃ格好いいと思う。
例えば、グリンチの家の中は一見ただの汚らしい洞穴に見えるのだが、そこはグリンチの手により生み出された機械やおもちゃで溢れている。ジェットエンジン搭載の空飛ぶソリまでこしらえてしまうくらいの知性があって、冷静に見れば、彼の創造性や技術力には目を見張るものがある。
フィジカルも強い。子供の頃はいじめにブチ切れて教室のクリスマスツリーを振り回しているし、やけに身軽な様もところどころで見られる。ジェットエンジンのテストのために凄まじい速度で壁にぶち当たる(かつ/しかし死なない)シーンがあるが、これは「まんが・アニメ的リアリズム」というより、グリンチの身体に超人性が宿っていると考えて問題なさげである。
ところで、クリスマス直前のフーヴィル(フーたちの住む町)は明らかに過剰な消費社会で、誰かが大声で特定の商品のバーゲン開始を告げると間髪入れずに群衆が店に押し寄せる。クリスマスプレゼントを買いあさる父の姿を見ながら、幼いシンディ・ルーは「これでいいのかよ」と疑問を抱く。
シンディの兄貴らがフーヴィルへと帰り、グリンチの住まうクランピット山で本人に襲撃されたと言うと街全体が騒然とするが、そこに市長が登場し、分厚い法典から何か条文を読み上げて人びとを落ち着ける。法典はもう一度現れる。シンディ・ルーがグリンチをクリスマス名誉会長に推薦したとき、市長は条文をでっち上げて推薦を退けようとするが、シンディは嘘を見抜く。街の人びとはどちらに真実があるか分からない。
こうして資本主義社会や寡頭政治を揶揄するのは意欲的なコメディ映画の習いだろうか。フーたちはプレゼントを買うだけ買って、もはや使わないとなれば直ちに破棄するが、彼らのゴミ捨て場はグリンチの住まうクランピット山である。どうしてもグリンチを遠ざけておきたい市長は、子供時代にグリンチが傷ついてフーヴィルを去り山に籠る原因となったいじめの主導者だった。グリンチは先天的に「フーになれないフー」(非モテ)なのではなくて、法と制度による統治を謳う共同体の抑圧の犠牲者なのだ(市長のガールフレンドは実のところずっとグリンチが好きだった)。物語を分かりやすさのために極端化されているとだけ理解するのでは不十分ではないだろうか。(字義通り)先進(的だと思われている)社会は実のところこうした特定者への差別、疎外、収奪、スティグマ化をせずにはいられないものなのではないかという想像力を抱かずにはいられない。
それにしても子供のシンディ・ルーが馴染めないほど過剰な消費社会なわけだが、これはもう消費のなかに身を置くこと自体が楽しくて仕方がないからと思わざるを得ない。マーケットの享楽とでも言い得るか。グリンチはそれすらも一晩で粉砕してしまう。ジェットソリで夜中の寝静まるフーヴィルに侵入し、家々からプレゼントをかっさらう。朝になり起き出してきたフーたちははじめショックを受けた素振りを見せるも、シンディの父が「モノより家族が大事だよ」と言いだしたことに共感が広がり、フーヴィル千年祭は初めての物質なきクリスマスとして祝われる。
これを目撃したグリンチのハートのサイズが肥大化し、最終的にフーヴィルに迎え入れられるという形で円満な幕引きとなるが、お前らそれでいいのかよと言いたくなる気持ちを抑えたい。ここについては物質に拘らなくなったというより消費に拘らなくなったのだと思っている。物質に対する本来的なニーズは(本当はあったとしても)一度も描かれず、フーたちはブルジョワなので、消費行動の反省は妥当な結論だ。そして、自分を疎外した連中のゴミから作り出した機械と技術で住民たちの欲望を少なからず変形させてしまったところにグリンチの反逆者としての意匠が光っている。グリンチが格好いい真の理由はそこにあるのかもしれない。
映画の途中、グリンチが商業主義クリスマスを馬鹿にするシーンがある。実のところ、ぼくらの多くは少なからず同じことを思っている節がある。商業主義はアホだ。物を買いまくってゴミを出し過ぎるのは間違っている。「愛することを犠牲にして(グリンチの疎外)勤しむマーケットなんて楽しくないじゃない」というシンディの気持ちに、ぼくらは共感しているはずなのだ。
ところがぼくらは、享楽なきマーケットを未だに手放してはいない。
「日本死ね」批判について
流行語大賞に選出された「保育園落ちた日本死ね」というフレーズについて、有村裕子という方(誰だか知りません)の書いたコラムを読んだ。こう書かれている。
しかしながら、「流行語ベスト10」の中には気がかりな言葉もありました。「保育園落ちた日本死ね」です。待機児童問題は深刻化し、特に今年はクローズアップされました。女性とみられる方がブログに書き込んだ文章が話題になりましたが、この言葉が全国的に流行(はや)ったのでしょうか。そもそも「死ね」という言葉が流行語として認定されることが健全といえるのでしょうか。
ある選考委員は「問題を喚起するものとして選んだので、言葉として『好きだ、嫌いだ』『過激だ、穏やかだ』といった観点はない」と話しました。でも流行語として見た子どもたちが、どんな思いを抱くでしょう。授賞式で笑顔を浮かべていた国会議員や、選考基準の理解に苦しみます。
今日偶然にもファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理 ―ネオリベラリズムへの反論』(原山哲・山下りえ子訳)を読んでいて、上の話について何か言えていそうな一節に遭遇したので、そちらも引いてみる。ネオコンサバティズム(ネオコン、文中ではネオ保守主義)についてのコメントだ。翻訳にやや難ありだが理解はできる。
ネオ保守主義は、最小限度の道徳としての機能があるだろう。それは、自律している起業家や経済力のある消費者ではなく、もっと弱い人びとの欲望を抑制させるためなのだ。 だからこそ、ネオ保守主義は、ネオリベラリズムと親和性がある。ネオ保守主義は、人間の運命の不平等を問題にしないし、社会における「非」民主的な使命を保持している。
有村さんの議論は、彼女由来でも独自でもなく、ソーシャルメディアにもその他のインターネットの時空間にもリアルな世界にも氾濫している。これは一人ひとりが内在的な美醜の感覚に照らしあわせて「日本死ね」の流行語選出に憤慨しているというわけではなく、より社会的政治的な出来事として捉えられるし、捉えられるべきではないだろうか。つまり、言葉遣いへの問題提起の形ではあっても、実際のところ批判は抑圧ありきでなされているということだ。実際の問題(待機児童問題)も、力強さにおける訴えのプラグマティックな画期性も一切無視するために、道徳的な感情が扇動されている。この現象は新自由主義を受け入れた社会のひとつの側面(しかし、実のところ広範な面)で発生するものとして理解できるはずだ。
つい先日、総理大臣の「子供の貧困は減少した」という趣旨の発言の報道を目にした。この発言を無知と評価するだけでは不十分だ。社会には、このような生活の問題の実態を直視することを避け、訴えを退ける意志が濃厚だ。流行語批判についても、意味がないから言葉遣いの問題に拘りづつけるのは直ちに止すべきだという主張は首肯できるが、それしか言わないのはナイーブだ。批判の動機は、言葉の攻撃性の作用にたいする反作用(反動)だけではなく、訴えにより引き起こされたある種の政治に対するルサンチマンでもあるはずだからだ。
社会は引き続き、弱い者いじめから舵を切ることをしようとしていない。
A YouTuber's Election:CinnamonToastKen "WHO DID I VOTE FOR | Maybe Moving to Australia"
(注意!この記事は、動画投稿者CinnamonToastKenの発言を一字一句正確に訳したものではなく、選挙についての発言を簡単に要約しただけ。動画を観るときの参考にすらならないかも。ご了承ください)
・今日は投票日。投票に行った。もう投票した?だといいけど。
・メアリー(オーストラリア人のガールフレンド)に、「アメリカを救わなきゃ。投票に行って」って言われた。
・こういう選挙は本当につらい。国のリーダーを選ぶにしては、候補者みんな最悪だから。
・「DO THE RIGHT THING! VOTE!」ってツイートしてる人はたくさんいたけど、何が言いたいんだろう。特定の誰かに投票しろってことなのか。なんでみんな、誰々に投票しろって言わないんだろう。みんな、誰に入れるかいうのが恐いんだよね。だから「誰に入れたかというと」ってなると、みんな「うわ、誰にいれたか言うのかよ」ってなる。そんなの誰でもいいよね。へっへっへ。
・ぼくはヒラリーに投票した。気分は良くない。良くないけど、第三政党に投票しても意味ないし、有力なふたりの中から選ばないといけなかった。
・トランプには耐えられなかった。ディベート見たけど最低だった。「こいつに投票はできねえな」って。
・誰が大統領になるんだろうね。金持ちで権力を持った白人が必要なんだろ。ずっとそうだった。うえっ。
・オバマじゃだめ?もう一期だけ。次の大統領を最底辺から選ばなくてもいいように。
・世界中がぼくたちのこと笑ってる。LAにいたときフェリックス(スウェーデン出身のYouTuber)やブレッド(イギリス出身YouTuber)、イギリスの連中に「ぶーっ、アメリカ積んだな。お前らは終わった」って言われた。メアリーとかオーストラリアの人には「(アメリカ)本当に馬鹿みたい」って。
(Kenはビデオゲームの実況動画を作って稼いでいる、ごく一般的なYouTuberの若者でしかない)
(動画についてKenを褒めたり貶したりするつもりは一切ない。ただ、今回のアメリカの大統領選挙が、おそらくたくさんのアメリカ人をかつてないほど失望させたということについては、頭の中にとどめておく価値があると思う)
(その失望から何かが生まれるかもしれない)
『スーサイド・スクワッド』はわりと好き。どちらかというと。
しばらく前に『スーサイド・スクワッド』を観た。
はっきり言って、中途半端な映画だった。退屈することはなかったにせよ、まず、ほぼすべての主要登場人物の物語を詰め込もうとして、つまり映画として何がいいたいのか?の部分が不鮮明。こういう映画で大事なのは、登場人物全員の素性が、事細かに説明されていなければいけないわけではないということだ。
各キャラクタの説明を兼ねた回想が、文字通り順番に出てくるだけの序盤については、編集の粗末さを感じずにはいられなかったけれど、映画の知識がなくてああしたんじゃなくて、よく言えば、コミカルにしたくて、悪く言えば、安っぽくなることを承知で、敢えてああいう構成にしたんだろうから、そこに落胆するのは悔しいような気もする。ただ、ああすることが、コミック原作の物語にとって重要というわけではないので、全体に漂う漫画っぽさは、やりすぎだろうと思ったりもした。暗くてシリアスにしたらしたで、また、『バットマンvsスーパーマン』のときみたいな批判を食らうかもしれないが、デイビッド・エアーが監督なんだから、もっと彼っぽさがあってよかったと思う。
どうせ続編や関連した映画が作られるわけだし、中途半端な明るさや丁寧さではなく、その真逆を行ってほしかった。そういえば、ジャスティス・リーグも既にディスられ始めているみたいなのだが、どうやら批評家の声がいちばん大きいらしい。YouTubeでトレイラー動画のコメント欄を観にいっても、多くの人は、比較的、楽しみにしているように見える。どうすればいいのか分からないと思うけど、気にせず好きなようにやってと言うのがベストか。
ただ、中途半端という言葉にも、いろいろなニュアンスがあると思って、敢えて今、そう書いてみた。僕の場合、さっき言ったように、退屈はしなかった。むしろ、オタクなりに、面白く鑑賞させてもらった。背景があまりにも臭いとは言え、エル・ディアブロみたいな炎の超能力者が、容赦なく敵勢に火放ってる場面に、わくわくしないわけにはいかないじゃないか。それから、デッドショットが銃を構えて敵のモブに撃ちまくるところも超絶格好良かった。漫画の表紙を再現したところも、意味はないけど何だかいいじゃん!と思った。
ところで、ジョーカーは、思ったよりも、本筋への絡みが少なくて残念。だけど、『バットマンvsスーパーマン』で示唆的に描かれていただけだが、今回のDCエクステンデッドユニバースの中で、ジョーカーは、どうやら、ロビン殺害犯らしい。ベン・アフレック主演/監督のバットマンが、すでに一作、製作されることが決まっている。今度の悪党は、デスストロークらしいが、その後、もしかすれば、ジョーカーをフィーチャーした作品が製作されるのではないかという期待を持っている。皆持っているはずだ。個人的には、もしロビンを登場させるなら、ぜひマット・デイモンに演じてほしい。そしたら伝説になる。
そういえば、ハーレイ・クインを主人公にしたスピンオフが製作されるという情報がある。もちろん、マーゴット・ロビー主演となるだろう。だけど、このハーレイ・クインについて、これ以上何を描くの?というのが全然分からない。ただ、今回は持ってただけで実際に使わなかったでっかいハンマー、あれを振り回しているところが絶対に観たい。
カタナとか、キラークロックとか、そういった登場人物の過去は、今後のスーサイド・スクアッド映画で、より詳しいことが明らかになるだろう。ならなくてもいいが。回想より、アクションシーンのほうが、もっとたくさん観たいかもしれない。脇役ということでは、いるだけで抜群の小物感を醸し出していたキャプテン・ブーメランが、個人的には第一位だった。
さて、内容から話を逸らすと、編集についてのかわいそうなエピソードが、すでに多くのメディアによって暴露されている。編集が切羽詰まっているときに、ビジネスの都合で、作品発表日時の延期が無理だったんだとか。他にもいくつか。カットされたシーンの中には、もし収録されていれば、筋書きの解釈を180度変えてしまうものまである。それは、後々販売されるDVD等に収録されるだろうが、とにかく、作ること自体が大変な経験だっただろう。
映画が大規模化している。3部作で契約することは、すでに一般的だが、もはや、従来、普通とされていた尺では、表現したいものがしきれなくなり始めているのではないだろうか。ザック・スナイダーは、思い切った尺の引き延ばしで、文字通り、全てを積み込む。長すぎれば、また面倒くさいビジネスの問題として、批判されたり、嫌がられたりするのかもしれないが、この際、思い切って、バンバン尺長な映画を作っていってはどうだろう。『スーサイド・スクワッド』も、もちろん、台本そのものの問題は見逃せないが、盛りだくさんにしたいというなら、何でも詰め込んでいいんだという、思い切った精神状態で取り組んだら、もっといい作品になっていたような気がする。
これを書いておきたかったのは、批評家たちが、あまりにも、本作を悪く書きすぎだと思ったから。既に多くのファンがぶちぎれていて、映画を全力で「擁護」している。はっきり言って、そこまですると政治的すぎるし、やりすぎだと思うが、ボロクソ言われるだけの映画でもないと思ったので、いちおう、正直な感想を述べておいた。エアー監督頑張って。
古代ギリシャ展
上野の美術館・博物館に足を運ぶのは久しぶり。思いつきで行ったが正解だった。
特別展についての博物館による詳細はこちら。
個人的には第1章から第3章までの展示が面白かった。
それぞれ新石器時代、ミノス文明、ミケーア文明、という分け方。
写真がない(というか展示中に写真は撮れない)から、気に入ったものの中で、グーグルで写真を見つけたのはこれ。左側のそれ。これは新石器時代のセクション。
説明書きが読めるけど、要するにグローバルなネットワークが安定していますように、という思いが、取っ手の形作る円形に表れているらしい。世界的な商売が順調に行くには平和でなければいけないわけで(武器産業は逆だろうけど)、何となく、これにはポリティカルなニュアンスを読み取ることができるのではないかと勝手に思った。とにかく、クリエイターの言わんとすることが、このシンプルさのみを以て、これだけ十分に伝わってくるということに関心したということが言いたい。
同じ部屋の反対側には、とある水差しがあった。凝っているわけではないがシンプルなのが良かった。隣には「ぶどう栽培が始まったことによるライフスタイルの変化を受けて作られた」という旨の説明があった(括弧内に書いたことでだいたいあっていると思うが、全然違ったらすいません)。「ぶどう栽培」とあったから、「これはもしかしてワインを作りだしたのかな?だとしたらこれはデカンタということ?!」と勝手に想像しては興奮してしまって、「やっぱりデカンタは便利でイイよなあ。俺もサイゼリヤ行ったら赤ワインデカンタで頼むもんなあ」とまたひとりで勝手に昔の人への共感の波に揉まれた。ただし、単なる推測であって、ぜんぜん違う可能性はある。
ここで自分のまだまだ浅い飲酒歴を振り返ってみると、ギリシャのワインは飲んだことがない。店にもあんまり置いてないし、コンビニにも売っていないような気がするが...?博物館の売店を見てみたら売っていたので危うく買いそうになったが、思いとどまった。
それから、ミノスだったかミケーアだったか忘れてしまったけど、でかでかとタコの書いてある大きめの壺があった。どうやらぶどう酒を入れて使うようだった。外も中も地中海っぽくて素晴らしい。目の前にいるだけでオリーブオイルの香りがする。
ところで、他の壺とか金貨とかにもめっちゃタコがフィーチャーされていたが、この頃のギリシャの人はタコのことをどう思っていたんだろうか。西洋でタコというと、悪魔というかクトゥルフというか、とにかく化け物みたいな感じだが、それは一神教のアレということか。
それ以降の幾何学様式とかクラシック(古典)時代とかは、模様や造形の技術は格段に進歩していて凝ってるんだけど、それ以前の時代のほうが「社会に密接したものづくり」感が強くて、自分としてはそれが好きだった。後の方になると、社会のことは奴隷に任せちゃって、政治的な部分を社会生活から遠くに持って行ってしまう。神殿に神話が描かれた壺飾ったりとか、イケメン神様の像彫ったりとか、よくできたものばっかりだとは思ったけど、古代ギリシャに生きていた人々の身体的なものはそこには宿ってはいなかった(むしろ神様の体形に似せるために筋トレやるということが大事だったのではないだろうか)。逆に、最初に写真でも見せた、取っ手が輪になっている壺は、凝ってはいないけど、実用的な部分と象徴的な部分の整っているあたりが心をうった。
あんまり美のための美術とかにあんまり興味がない。芸術のための芸術とか、政治のための政治とか。内容考えずにライムのためだけのラップとか、内容考えずに法案通すためだけの議会とか、いいものだとは思わない。最初の方の「社会に密接したものづくり」感溢れる壺たちは、身体的なレベルで共感することができた。政治家を含むすべての人は、こういうものを常に携えつつ、政治談議に臨むべきではないか。
小林喜巳子の版画
ぼくの親戚の小林喜巳子は、コミュニストであり、芸術家であり、版画を作る。
祖父母宅に、彼女の大きなアトリエがある。
そこには、彼女の版画集が数セット置いてある。彼女の弟である祖父に教えてもらい、いちセットだけ実家に持って帰ってきた。
いくつか写真を撮ってみた。これは「団地祭」。
彼女は集合住宅を書くことが多い。ぼくの母の地元には大きな集合住宅がある。
ぼくの実家は別の場所の集合住宅だ。
左下の櫓には「26号線...反対」という文字がある。
「ダイ・イン」。反人種差別の抗議の際に、何度か同じようなこと(シット・イン)を実践したというのに、偶々アトリエで見かけていたこの版画を、どういうわけか忘れていた。
「戦争はイヤ」
彼女は、宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』の絵本を出版してもいる。
夫の林文雄は、やはりコミュニストであり、美術評論家である。
日本のかっぱ話
ブログ一回目なので適当に。
子ども時代の愛読書。
児童文学作家・須知徳平による『日本のかっぱ話』。
表紙の奴、ちょっと怖い。
かっぱとヒトとの関係にスポットライトを当てた話が多数収録されている。もちろんかっぱとは何かという説明にも多くのページがさかれている。
女性トイレの便器の下で、お尻を触るために待ち構えていて、医者の奥さんに伸ばした腕を短刀でぶった切られる、なんて話も。後で切り落とされた腕を泣く泣く返してもらいに行くのですが、腕をくっつけるためにそのとき作った薬を売って、医者の家が繁栄するという落ち。
話としては丸くおさまっている感じなのかもしれないが、それでいいのか。
そのほかにも、武士にいたずらして怒られたり、子どもたちに水泳を教えたり、漁師にリンチにあって殺されたり、まあいろいろある。
顔がさるに似ているとか、全身に毛が生えているとか、体中が緑色でヌメヌメとか、いろいろなバリエーションがあるらしい。
そもそも水虎とか淵ざるとかカムロとか、場所によりいろいろな呼び方をされていたものに、江戸時代くらいに河童という統一の呼称が与えられたというが、果たしてそれらが同じものなのかどうかは個人的には疑問に感じている。ただ水の神様的なポジションらしいことは共通しているように思う。
最後はまるまる引用。
「しかし、ざんねんなことに、現代の日本においては、文明の進歩とか、国土の開発とかいう名のもとに、自然を破壊し、山はくずされ、木はきりたおされ、川やぬまはうずめられ、海はにごり、鳥やけものや魚(うお)などはしだいにすめなくなってきました。
それとともに、かっぱもまた、だんだん姿を消していったのではないでしょうか。
かっぱたちは、あるいはどこかとりのこされた川やぬまの片すみによりあつまって、
「ああ、おれたちの世界はもう終わりか。」
と、嘆き悲しんでいるのかもしれません。」